兵庫県震災復興研究センター

阪神・淡路大震災の直後の大混乱の中で、いち早く被災者の暮らしの復旧、被災地の復興を目標として、日本科学者会議兵庫支部と兵庫県労働運動総合研究所が共同で個人補償の実施を中心内容とした「震災復興のための提言」を1月 29日に国と被災自治体に提出しました。そして、この2つの研究機関を母体に1995年4月22日、兵庫県震災復興研究センター(震災研究センター)が設立されました。

11・30第3回フィールドワークの報告(感想追加=12.9)

【第3回フィールドワーク】
 11月30日(日)、淡路市(旧北淡町)富島(としま)の復興区画整理地区を訪れ、5時間近く、見て歩きました。参加者は、28人。神戸市長田区御蔵(みくら)の“語り部さん”・9人、そして今回も石川県金沢市からのご参加もありました。また、マスコミからも2人の参加がありました。当日のスケジュールは、次の通りです。
 
■午前10時30分〜12時10分、「北淡セミナーハウス」(活断層が保存されている北淡震災記念公園東、風力発電のあるところ)にて、行政と住民双方の方お2人から説明.
 ●説明・案内:
  蜂谷   一郎氏(淡路市区画整理課長)
  田村伊久男氏(淡路市会議員・富島地区を愛する会)
■午後1時〜2時30分、お2人のご案内にて区画整理地区の見学会.
■午後3時〜、北淡震災記念公園などの見学.

 富島地区の人口は、この14年近くで1670人・602世帯(1995年)から、1035人〔62%〕・489世帯〔81%〕に減少、高齢化率は、37.8%。この間の転入は、1桁。
 区画整理事業の事業費は、当初178億円から234億4800万円(2008年3月現在)となった。借金の残高は、66億4800万円で、財政状況は、兵庫県下ワースト1、全国でワースト5に入っている。

 区画整理事業の課題として挙げられたのは、「移転の合意」を得ること。やむなく「直接施行」(区画整理法第77条)をしたのが2件。その内の1件、大崎造船は、操業休止状態であったが、クレーン3機は、操業中であるかのように手入れされていた。「直接施行」という強制執行に「割り切れなさを感じた。かたちはできたが、胸をはれるか・・・」との蜂谷課長の言葉が印象的であった。
 「ここは、平地が少なく、企業誘致もままならない。冬は、潮風が厳しく、山を越えた東浦とは全然違う。不動産屋は、冬場は条件が悪いので土地を案内したりはしない。働く場所がない。観光誘致で、定住促進を図っている」と、蜂谷氏はまちづくりの苦悩を語った。
 一方、「まちは、きれいになったが、人がいなくなった。これでいいのか。何のために区画整理をするのか。あと5年もすれば、人口は半減するだろう・・・」と“富島地区を愛する会”のコーディネーター役を務めてきた田村氏は、14年の運動を振り返りながら語った。

 事業用仮設住宅が17戸残っており、区画整理地区の通りは閑散としていた。また、明石〜富島間の高速船・淡路ジェノバラインは去る5月、休止に追い込まれていた。今後、富島小学校や野島小学校、育波小学校が浅野小学校に統合され、旧北淡町内で小学校が1校になるとのこと。

 このフィールドワークの「目的」の一つである「「災害列島日本」での今後の災害への備えのため、復興まちづくりの成功例や失敗例などを、改めて検証」できる具体的事例を、今回もリアルに掴むことができました。

 

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 以下、ご参加いただいた4人の方の感想を紹介します。
◆富島地区のことが学べたことはもちろんのこと、御蔵の人にとっては、
 1.4時間ほどかけて、区画整理事業等の振り返りができたこと。
 2.まちづくりに頑張っている人のお話を聞いて、私たちも1日1日新たな気持ちで発信しようと思ったこと等、いろいろ有意義な時間が過ごせました。ありがとうございました。
 「まち・コミブログ」で活動をお知らせしています。http://machicomi.blog42.fc2.com

◆行政側、住民側双方の話が聞け、分かりやすかったです。双方の方が、もともと友人同士だったとお聞きし、激しく対立した当時のことを思うと、なんとも切ない気持ちになりました。仕事や立場があるとはいえ、つらいものだったでしょう。
 果たして、小さな田舎町で、大規模な区画整理事業が本当に必要だったのか。ほかに方法がなかったのかな、と感じました。人口はどんどん減っていると聞き、町の活性化や暮らしの再建につながるまちづくりのあり方の難しさを考えました。

◆初参加のフィールドワーク参加でした。今夏、偶然にも野島断層保存館に行って来ました。その時には、きれいな町並みだなぁと思っていました。あの大震災で壊滅的に破壊された町がこのように整然と建物が立ち並ぶということは、県や市などが余程てこ入れをしたのだなぁ!保存館建設に絡んだ、『何とか?景気』なのかなぁ?とも思っていました。
 しかし、人があまり歩いていない。見えるのは、旅行者らしき人々が主だったので、復興へのプロセスが失敗だったのかなぁとも思っていました。ハード(建物)が立派になっても、人が住まなければ、家、町、集落ではないでしょう。
 帰路の車中で、金沢大学の田中純一さんも話されたように、「限界集落」を越えて、「村納め」(この字を当てるのかなぁ?)になっていくのか?今夏の時に、このような言葉的な感じ・感覚ではなかったですが、今になって、なんとなくうなずける事だなぁと思いました。真の復興とは難しいですね。まだまだ、大震災治まらず(終わらず)、って感じですね。

◆行政側と住民側双方の貴重なお話を聴くことができまして、たいへん勉強させていただきました。震災前の富島地区を訪れたことはありませんが、区画整理後とは全く違う漁業の街の風情があったことでしょう。お年寄りが納屋や軒先で網をつくろっているとか。特徴のない町並みに建て替えられてたいへん残念に思いました。前回、見学に行きました神戸市東灘区森南町の町並みと変わりません。
 これも国の復興施策の結果でしょうが、こうやって災害が起こる度に、町並みが画一化されていくのを地元の人たちも受け入れざるを得なかったのでしょう。最初に地元住民の声を充分尊重して国・県・町の支援策を打ち出すべきではなかったのでしょうか。「千載一遇のチャンス」がまかり通った阪神・淡路大震災の復興施策が淡路島も同様だったと感じました。
 行政の都合で住民が振り回されて「区画病」になって、寿命を縮めて震災から丸14年近くになっても家が建っていない土地があちこちに残る街になってしまっています。区画整理はなぜ必要なのでしょうか。道路が狭くてなぜいけないんでしょうか。それなりの防災対策はいくらでもあります。ヨーロッパの狭い路地のある町並みも何百年も保存されて暮らしがあります。
 コミュニティーが破壊されて修復不可能になった被災マンションに比べると、当地は町の歴史もあって顔見知りが多く、また田村伊久男さんのようなリーダーの存在も大きかったと思います。復興にご夫婦で尽力されたすばらしい方でした。皆様の活動に敬意を表します。日本の国の施策に根本的な問題があります。よって被災者としてもこの教訓を生かした活動を続けていきたいと思っています。

震源地でもある被災地の復興のため進められた土地区画整理事業の光の部分と影の部分を現場で見聞きさせていただきましたこと、とても勉強になりました。
 私の専門分野からのハード面での視点からは、地殻変動によって土地の境界も大幅に移動した地域では、そのことだけを考えれば、土地区画整理の手法は、従前の境界点をガラガラポンにしてしまって、新しく境界を創設する手法でもあるので、それはそれで相隣者間の紛争でもあるという悩ましい側面を持つ境界に関する紛争の回避という点からも、有効な手法だと思います。
 雲仙普賢岳の火山災害でも火砕流などで境界が不明になった地域の復興に、境界の安定・紛争や混乱の回避という見地からも土地区画整理事業が有効であるとして、実施されました。
 実は私自身も土地家屋調査士資格のほか、土地区画整理士の資格も有しているのですが、事業化による経済的なメリットもさることながら、所有の範囲や占有の範囲の確定がすべての復興事業の基盤であることから、それを具体的に事業にどのように活用していくかに関心があり、もっぱらその視点から考えてしまう傾向にあります。その意味で、とても勉強になりました。
 なお、専門外のことではありますが、地場産業の空洞化や過疎化・高齢化が進む中での復興まちづくり手法の選択の難しさや、14年も経って、いまだ復興途上にある方々の心の痛みや失われた日々への切ない思いの幾分かを感じ取ることができました。
 それにしても、当日ご説明いただいた市職員、市会議員の先生方の地域復興への篤い思いに感銘を受けました。ありがとうございました。